中学生のとき、弁論大会に出た。

障害者福祉について述べた。

 

 

私の兄は小児麻痺が原因で、重度の身体障害者だ。

初めての子どもが歩くことがかなわず、母は、父は、苦労もしたし、何より、悲しかったと思う。

車いすもどきのバギーに乘る兄を見て、何かしら言っていた人もいたと思うが、私にとって唯一の兄なので、差別的なことは感じなかった(感じないふりをしていたのかもしれない)

両親は、兄の将来、きっと私達弟妹の将来も見据え、周囲の勧めもあって、6歳の兄を障害者施設に入れた

月2回面会日があった

面会日が終わる15時になると、必ず兄が泣く

わーんわーーーんと泣く

それを見て、両親も泣く

6歳でも15歳でも兄は泣いていた

一番親といたい年なのに、知らない人達と一緒に暮らすしかない兄・・・

兄に気付かれないように、隠れるようにして施設をあとにし、母は必ず電話を入れた

「泣き止みましたか」

「いい子で遊んでおられますよ」

当たり前だ

施設の人だって、延々泣いていますなんて言わないし言えない

母だって分かっている

分かっていて電話をするのだ

弁論大会では、まず作文で審査がある

「少々長いので短くしなさい」というコメントと共に、書類審査を通過した

あまり覚えていないけれど、本番では、「障害者が生きやすい社会でありますよう」

そんなことを3分でスピーチした

知らない人たちの前で、自分の声が響く

誰もがうんうんと聞いてくれる(当たり前だが)

そのとき、私は思った

マイクで話せば人は聞いてくれるのだ

兄のことも、知ってもらえるのだ

マイクを持って人前に立ち、兄の心を代弁するのだと

一方で、書くことで思いを表現するほうにも興味があったので、その思いは社会人になり、違うカタチで実現することになる

プロのナレーターの先生が、地元で「話し方講座」を開講されることになり、気軽な気持ちで受講することにした

先生が「司会者養成講座」も開講されたので、何とか修了した

すると、社会福祉協議会で募集していた「音訳奉仕員」のボランティア講座が目に留まった

おもには、声を録音して視覚障害者に届けるボランティアだ

習う内容が濃く、こんなに、こんなに本格的なのかと驚いた

回数もやることも多く、何とかかんとか修了することができたが、上のクラスまでは修了できなかった

福祉にかける思いが、そこまでなかったのかもしれない

書くスピードが速いから向いているかもと言われ、続けて要約筆記奉仕員の講座も修了した

習得した技術は大したことはないが、どちらも少しだけボランティアができるレベルになった

今でも時々、聴力に障害がある人のために要約筆記をして喜ばれることがある

音訳奉仕員や司会者養成講座の経験は、ごくたまに依頼される司会で、下手ながら役に立っている

ああ、私は、中学時代にマイクを通した自分の声を聞いて「兄のために」と思ったのだと思い出す

今は、誰かのために、時折、マイクを握っている

先日やっと兄との面会が許可された

母と弟たちと出掛けた

兄は小さくなって体調が悪いらしい・・・

長生きはできないかもしれないと言われて50年生きてくれた兄

私の不幸を背負ってくれた兄

残された母のためにも、まだ天国の父のところには行かないで