小学3年のときに自分の作品が本に掲載されて以来、
私の夢は「書いて生きていくこと」でそれは叶うと信じていた
なぜなら、小学校からずっと「書くもの書くもの全て受賞」だったからだ
学校で公に募集される作文等はもちろん、自分で新聞に書いてある「●●募集」なども応募して、
中学時代は当時流行っていたファミコンのカセットももらったし、賞金3万をもらったこともある
「書けば認めてもらえる」は自信であり、何ら魅力もない貧乏な少女の居場所だった

しかし、大学4年の就職活動の現実は甘くなかった
テレビ局、ラジオ局、新聞社、雑誌社、広告代理店
ことごとくダメだった
当時はハガキによる「資料請求」からセミナー参加、試験参加・・・という流れが多かったと思うが、
就職氷河期に「超」がついたときで、ハガキの返事は半分もこなかった
あわてて金融機関や証券会社等も広げて就職活動をした
第一希望の新聞社は、役員面接までたどりついたが、
面接時に「あなたの大学でここまできたひとは、あなたがはじめて」と言われて唖然とした
あんなに憧れてきた新聞記者の採用試験でこんなことを言うんだ・・・
しかも「どんな記事が書きたいか」という問いに、うまく答えられなかった
残念だったが自分のミスだ、仕方がないと思った
雑誌社は1社内定は出たが、1人が社員として、私は1年間の契約を経て正社員という、何とも惜しい結果となった
タウン誌だったのでそれでもいいかなと思ったが、別の業界の2社に内定が出ていたので、断りの手紙を書いた
当時、タウン誌乱立で、その雑誌は一番に廃刊になった
(6年後、広告代理店に就職したとき、面接をしてくれた社長が廃刊の挨拶にきていた・・・)

テレビ、ラジオに至っては、一次選考にエントリーできたのが数社
広告代理店もそんなもので・・・

商社に就職して5年、一生懸命営業のしごとをした
とてもいい人たちに恵まれ、やりたいことは仕事もそれ以外も全部できたと思う
広島支店は、若い意見を積極的に取り入れる社風があり、楽しくはなかったけれど、やりがいがあった
給与もよかった
しかし、一番良いと思っていた社風ががらりと変わる事態が起きた
私をかわいがってくれた支店長交代だ
実質、支店長左遷
東京から、心のない支店長がきて、社の方針は180度かわった
罵倒、精神的な追い込み、公私混同・・・
退社する人が相次いだ
ただし業績は上がった
そんなとき父の余命がいくばくもないとしり、心の糸が切れた
幾度も退社の交渉をして、ちょうど5年経った3月末に退社した

5年間雇用保険をかけていると、当時は教育訓練給付金が8割支給されていた
退社して、父の見舞いに行きながら、すぐ資格取得を目指した
まずはAFPから
手に職、税理士を目指していた

AFPの試験目前に、父が最後の入院をした
父の隣で勉強した
看護師さんが「自慢の娘さんよね」と言う
まもなく父はこの世を去り、私はAFPに一発合格した
父のおかげと思っている
そのあとで受けたFP技能士2級は、今は難しい資格だが、当時はとても簡単だった

半年もたたず、夢の広告代理店に転職できた
それは父が亡くなる直前だった
震える手で身元引受人にサインする父・・・
誰もが知る大手広告代理店だ
株をする伯父さんが社名を知り、ことのほか喜んだと後で聞く
「よかったのう・・・」よわよわしい文字はもうじき命が消えることを示していた
葬式の日、入社して間のない私の父のために、会社から大きな花輪が2つも出た
あんなに、あんなに私の転職を喜んでいた父に、最後に親孝行できた気がした

その後、結婚と転居で退職し、
初めて赴く地で初めての子育てをし・・・
社会から隔離された「ママ友の世界」に1年もいたら創作意欲が沸き上がり
当時まだ珍しかった「WEBサイト」なるものへ「本当は怖いママ友の世界」を連載した
そのサイトが今現存しないのが残念だ・・・笑

子どもたちが幼稚園に行くようになり、ちょっとパートに出てみたりしたが、
そこでもいろんなことがあって小説ネタになった
寝転んで書いた小説がいきなり賞をとった
そうだ、私には、書く夢があったんだった・・・
その思いを30歳を過ぎて再び燃焼させ、フリーランスライターの道へ

フリーランスとなったこの12年で、テレビ、ラジオ原稿、雑誌や新聞社などなど、仕事をすることができて幸せ
立場は対等で、遠慮することも困ることもない
何と幸せなことだろう?
フリーランスだから、媒体の垣根なく、「書く」「企画する」というところで仕事ができる
あのとき、入社したいと願った業界の全てと関わっている
FP技能士の資格も生きている
税理士のしごとは・・・できなかったけれど、税理士を雇うことができた笑
人生無駄なものは何ひとつない

願えば叶う
そんな半生に感謝
人生はとうの昔に折り返した
あとは最後の夢に向かっていこう