今日の取材はソフトボール
このバットを握るたびに、子どもたちはどんなことを思うんだろう・・・
「ここ!」というときに結果が残せる人、そうでない人

私はどちらかというと、人生の表舞台を歩いてきたと思う
多少は努力をしたかもしれないが、人の引き立てが大きかったことを自覚している
ラッキー
人のご縁
それがなかったらぞっとする

人生の転機に、電通への転職があった
わたしは、父の余命を知らされ、5年務めた会社を辞めた
当時、部下もいて、責任と役職がある仕事は精神的に無理と思った
・・・のは言い訳で、逃げだ
私は365日中364日、当時の会社を辞めたいと思っていた
営業という仕事の内容もさることながら、私には夢があり、その夢に近い仕事がしたくてしたくてたまらなかった
毎日履歴書をカバンに入れて、就職活動もしていたが
「こんなに給与がいい会社を辞めるのだから、次に就職するなら夢の業界へ」と決めていた
退職して、肩書も名刺も社会保険も何もかもなくなった
私は何でもないな、と思ったことをよく覚えている
ただ、教育訓練支援金が8割支給されたので、大栄で当時一番高額だった講座「AFP資格講座」に通うことにした
もし夢の仕事に就けないなら、勉強して税理士になろうと思っていた
そんなある日、登録していたマスコミ向け人材派遣会社から「ここを受けてみないか」といわれたのが電通だった
嬉々として面接に行った日は、雨
私だけかと思っていたら、そこには多くの女性が並んでいて驚いた
私の前の人が、黒くてダサい折りたたみ傘をくちゃくちゃに畳んでいて
服装も地味でだらしなく見え、「この子に負けるはずがない」と訳の分からない自信がでてきた
面接ではPC操作がある程度できるか否か、体力には自信があるかを聞かれた
にこにこして自信満々に返事をした
あとから振り返ると、面接官には、支社の偉い人たちばかり並んでいた
書類選考には100人を超えるエントリーがあったそうで、そのなかの数人が面接に進み、即戦力の私が採用されたのだとあとから聞いた

電通に入社できたのだから、そりゃおおごとなんだから
どんなことがあっても、何があっても頑張るのだと心に決めた
余命を宣告され、誰から見ても最後の帰宅だと分かっていた父が、それは喜び
力がなく震える手で、それでも必死に、私の身元引受人欄に名前を書いてくれた
あとから知ったが、親戚中に電話をして、私がSonyに匹敵する大手の電通に就職したのだと伝えまくっていたらしい・・・父が死んでから知ったことだ
入社して1カ月もたたないうちに父が亡くなり
まだ社内の全員の名前すら分からないうちに葬儀となった
忙しいだろうに、入社したばかりの私のために、会社の人達が何人も参列してくださった
「電通西日本」と書かれた大きな花輪が堂々と飾られた
参列者が「誰が電通に入社してるの?」とささやいている
あんなに、あんなに、あんなに私が電通に入社できたことを喜んでくれた父だから
父はきっとこの花輪を誇らしく思ってくれているに違いない
私は、父の葬儀で初めて親孝行できた気がした

何があっても頑張るのだと思ったが、
365日中364日辞めたいと思っていた会社にいた私が、
1回として辞めたいと思ったことはなかった
オフィスのあちこちで、誰もが知るタレントを使ったCMが制作されている
新聞広告が、雑誌が、チラシが・・・
夢のような世界で、私は一生懸命だった

そう、一生懸命だったのだ

バットを振る小学生も、何も分からない世界に飛び込んだ私も、ただただ一生懸命に
それ以上でもそれ以下でもなく

必死であればそれだけで居場所ができた
いや、居場所があると思えるのだ
そこに根が生え、踏ん張れるのだ
いつしか葉を広げ、種をまき、誰かが見つけてご縁をくれる
そうやって生きてきたのだ

残念ながら引っ越しと出産と転勤とが重なり、仕事を辞めることになったけれど・・・
私は間違いなく一度は人生を賭けた面接を勝ち抜いた
そこには誰にも負けない一生懸命があったはずだ

今から、この年で、新天地でまた違うチャレンジをする
でも不思議と不安はない
一生懸命やるしかない、やれば結果は出ると分かっているからだ

小学生が汗が染みついたバットを全力で振るように、私も迷いなく残りの人生を
一生懸命切り開いていく